2015年03月29日

リトアニア歴史概論ーバルト国家について最初に現われる歴史的消息(翻訳)

 私たちがバルト諸国について学ぶことのできる最初の著述家は、
西暦1世紀に生きていたピリニウス・シニアである。
彼は、富裕なローマ人商人であるネロがオーストリアの現在の首都ー
ウイーンの近くのドナウ川沿岸のカルヌントゥムからバルト海に向けて
旅立った、と書いている。この商人は、全ローマの円形演技場で飾り
立てられるほどの、大量の琥珀を買い付けた。彼は、バルト族が住む
地域で貿易するための条件とルートを探った、最初のローマ人の一人
だった。ローマ人の歴史家コーネリウス・タキトゥスー彼は西暦2世紀
の初めに死んだーはまた、彼がラテン語で「Aestiorum国」と呼んだ、
あるバルト族に言及している。彼は、これらの部族が農業と、海岸で
琥珀を採取しそれを原料のまま売ることで知られている、と指摘した。
西暦2世紀中期には、2つのバルト族がアレクサンドリアの地理学者、
クラウディウス・プトレマイオスによって言及されている。

 6世紀の歴史家フラウィウス・アウレリウス・カシドールは、西暦
525年頃、バルト族の使節がゴート人の支配者を訪れ、贈り物として
琥珀を持参した、と書いている。
もう一人の歴史家ジョルダンは、ゴート人の伝説に触れつつ、紀元4世紀
後半に統治したゴート人の王、ヘルマンリッヒ平和なバルト国を征服した
ことを指摘している。

 この事実は、バルト人が古代世界で知られていたことを示している。
西暦1世紀には、琥珀はここから運ばれて来ている。

 ギリシャ人やローマ人の著作の中に、バルト人に関するいくつかの
情報が記述されている、と言った。
しかし、実際は彼ら自身がこの地域を訪れたことはなかった。これら
著述家達は、それらの情報をバルト国の傍に居住する人々や他の情報源の
両方から得た。

 紀元九世紀末に、ウルフスタンはトルーソの市場を訪れた。
この貿易センターは、プロシアとスラブの国々が出会うビスワ川の
三角州−現在のポーランドのヅルズノ湖とエルブロンク湖からそう遠くない
ーにあった。ウルフスタンは航海者であり、イギリスの歴史でアルフレッド
大王(871-900)として知られるウェセックス王の使節でもあった。
私たちは彼以前の著述家よりもウルフスタンから、バルト人について
より多くのことを学ぶことができる。彼がもたらす最も興味深く重要な
情報は、葬儀である。

 彼は、バルト人は遺体を火葬にしたと書いている。
しかし、火葬の前の葬儀は、1ヶ月ないし2ヶ月の間続けられた。
大公や他の貴族の遺体は、埋葬の前に半年間、そのまま維持された。
事実、より豪華に、故人も、より長く埋葬儀式は執り行われた。

 ウルフスタンは、遺体は彼自身の家の地面の上に寝かせられたと
書いている。
葬儀の宴会が遺体の全安置期間を通して催され、伝統的な遊戯が
なされただろう。ほとんど全ての個人的な地所は、そのように
使われた。しかし、いったいそんなに長い間、どうやって遺体を
火葬にしないでいられたのか、という疑問が生ずる。

ウルフスタンは、バルト人は夏か冬かに関係なく、遺体を冷凍
する術を知っていたと指摘する。
彼らはそのために「ビールか水の満たされた」二つの壷を使う。
壷の一つを死んだ人の頭に、もう一つを足下に置く。液体は凍って
いる。それ故に、死んだ人の遺体は長い間も腐る事なく、横たわ
っていられる。

 最近までリトアニアの歴史家達は、死体の冷凍についての
ウルフスタンの記述に、懐疑的だった。
しかし最新の研究では、数世紀の後もリトアニアでは、死んだ
人の遺体はまだ時々何週間か時には何ヶ月も、火葬にされないで
いたことを示している。そしてこの慣習は、実に18世紀中期
まで続いた。

 当時、遺体の内蔵は取り出されて、ニガヨモギやその他の香草が
詰め込まれた。
私たちは、同じやり方が9世紀にも使われたと想像している。
それらの壷にはーウルフスタンによって言及されているがー取り
出された腸や心臓、その他の臓器が多分保存されていた。それらの
壷が、何らかの保存液で満たされていたと信じる事は可能だ。

 ウルフスタンは、遺体を火葬用の積みまきに安置すると定められた
日に、競馬が催されたと記述している。
死んだ人の残された所有物は、引き出され、5、6またはより多くの
部分に分けられて、それぞれが道端に山と積まれた。最も大きな山は、
死んだ人の自宅から1キロも離れた場所に置かれた。所有物の最も
小さな部分は、家の近くに置かれた。

最も良い馬を所有している男達が、約5、6マイル離れた場所に
集まるだろう。出発の合図が知らされると、男達は馬をギャロップで
前に向かって走らせる。勝者には、最も価値のある山が賞品として
与えられる。レースは、最後で最も小さい所有物の山が与えられた
時点で終わる。ウルフスタンは、良い馬がその国で高い価値を有する
理由だと指摘した。遺体が引き出され、火葬にされた後、遺品が
埋葬された。骨が見つかると火葬してない事が判明し、罰金が
課されただろう。


posted by ジャパニスト at 16:41| リトアニア歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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